柳生新陰流所縁の地と近年の行事

撮影:森山雅智氏 写真提供:日興美術株式会社

流祖以来当流とご縁のある主な場所とそこで行った行事を紹介します。(平成二十九年六月現在)

柳生新陰流と所縁の地
柳生新陰流と所縁の地

■芳徳寺(奈良県柳生の里)
・石舟斎の館のあとに柳生宗矩が先祖を弔うために臨済宗大徳寺派の芳徳寺を建立しました。
・永禄八年四月(1565年)、柳生石舟斎宗厳(むねとし)は流祖上泉伊勢守信綱より無刀の工夫を認められ一国一人の印可状を授けられました。平成二十七年六月、印可状相伝四百五十年祭として、柳生会の全体合宿を柳生の里にて行いました。流祖の兄弟弟子でもあった宝蔵院胤栄を流祖とする宝蔵院流槍術の方々にもご参加いただいて、芳徳寺での法要の後、正木坂剣禅道場にて奉納演武を行いました。

■白林寺(愛知県名古屋市)
・元和元年、犬山城城主、成瀬正成公の推挙により徳川家康公から任じられ、家康公の九男で初代尾張藩主徳川義直公の兵法師範となりました。正成公の菩提寺であった臨済宗妙心寺派白林寺が尾張に居を定めて以降、尾張柳生家の菩提所となりました。
・平成二十六年六月の全体合宿では白林寺本堂にて住職武山廣道様のご指導のもと坐禅を行いました。都会の喧噪の中で姿勢を崩さず自分の息を数えることに集中する一時となりました。「丹田に気を集め、肚で考え、肚で行動する。そして、我が消えて心がゼロとなれば自他一つになる」と説かれた禅の教えは、口伝書に説かれている世界とも重なります。口伝書外伝に書かれている「参じて知るべし」の一端を体感しました。
・平成二十七年十一月、名古屋市民に伝統文化を紹介する名古屋市他主催「やっとかめ文化祭2015」のプログラムとして、東京大学名誉教授、場の研究所所長清水博先生と宗家により「尾張柳生新陰流と場の思想」の講演を白林寺本堂内にて行い、続いて本堂前庭で演武をしました。
・平成二十八年十二月には、第二十世柳生厳長の五十回忌法要を営み、本堂前庭にて奉納演武を行いました。

■麟祥院(京都府右京区)
・慶安元年(1648年)、第三世柳生利厳は臨済宗妙心寺派総本山妙心寺の塔頭である麟祥院内の柳庵へ隠居しました。霊峰禅師のもとで参禅し余生を過ごし当院で亡くなりました。院内に葬られています。
・第五世を継いだ柳生連也厳包は、兄柳生利方の立会のもと同院にて道統を父より継承しました。厳包は遺言により墓を作ることを禁じましたが、その事績を刻した大きな位牌が当院に納められ祭られています。
・平成二十二年、石清水八幡での柳生会全体合宿の折、同院を訪問し開祖利厳と連也厳包の法要を行いました。

■妙興寺(愛知県一宮市)
・永禄六年頃、流祖が京都に向かう途上、臨済宗妙心寺派の妙興寺付近の村で、賊が子供を人質に取って小屋に籠もり村民が困っている場面に遭遇しました。流祖が、風体を僧に改め無刀にて賊を押さえ子供を解放したという逸話が残っています。黒澤明監督の七人の侍に出てくるシーンの元となった話です。
・同寺には尾張柳生家開祖利厳が寄進し表装し直した絹本着色十六羅漢図と道仏二教諸尊図があり、また当流第六世宗家である尾張藩第二代藩主光友公が寄進した鐘楼があるなど、当流と大変ご縁の深い名刹です。
・平成二十三年六月の柳生会全体合宿では、流祖の追善供養・奉納演武を行いました。

■清浄寺(愛知県名古屋市)
・名古屋市内矢場町にある第五世連也厳包旧宅跡に当流第六世尾張第二代藩主の徳川光友公が徳川家累代の祈願所として浄土宗の清浄寺を創建されました。
・連也は、広大な敷地内に庭園のある屋敷を建て生涯独身を通して兵法に研鑽しました。また、農州関伝の刀匠、伊藤肥後守秦光代に刀を鍛造させ、刀装としての「柳生拵え」「柳生鍔」を工夫公案したり、屋敷内に窯を築き茶碗や茶入れを焼かせるなど風雅の道を嗜みました。
・平成二十四年六月、柳生会全体合宿の後、寛保三年(1743年)連也五十回忌の際に描かれた肖像画を拝し、住職・副住職飯田父子様の読経のもと、三百十八回忌法要を営みました。

■西林寺(群馬県前橋市)
・流祖上泉伊勢守の居所があった上泉町の上泉家菩提所である曹洞宗の寺院です。流祖または子息秀胤のものであると言われているお墓があります。
・地元の人々により平成二十八年から剣聖上泉伊勢守を顕彰する流祖祭が開催され、同寺にて法要、武者行列の後、流祖銅像と流祖生誕の地と記した石碑の前で碑前祭が行われています。

■三條かの記念館・米沢恒武館(山形県米沢市)
・流祖の子息である上泉秀胤は北条方について里見氏と戦い千葉の国府台にて戦死しました。残された流祖の孫の泰綱と一族郎等は上杉家に仕え米沢に移り住みました。関ヶ原の役では、西軍の上杉家は東軍の最上家と戦い、上泉一統は長谷堂の戦いで壮絶な最後を遂げました。平成十一年十月、上泉家当主、上泉一治氏と第二十一世柳生延春が流祖以来四百三十六年の歳月を経て当舘において再会しました。
・以来、東京柳生会が当館で合宿を行うなど交流が続いています。

■春日大社(奈良県奈良市)
・春日大社は約1250年前、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメガミ)の四柱を御祭神として建立されました。本殿前の林檎の庭には林檎の木に向かい合って樹齢千年以上の大杉がそびえ立ち、前に立つ者にその歴史を語りかけています。
・柳生家の歴代の記録をまとめた『玉栄拾遺』に次のような内容の記述があります。天岩戸が分かれて一つが和州に飛来し、その地を神戸岩と呼ぶようになった。その辺りには大柳生庄・塚原庄・戸馳庄・小柳生庄の四箇庄が有り、およそ千年前に藤原頼通がそれらを春日社の神料の地として寄付しました。時は下って大和国士六党は春日大明神を主として奉仕しました。天文七年(1538年)十一月二十七日に若宮祭礼執行願主人頭役之事として、六党の内の散在党に属した柳生の名前があります。
・宝蔵院流槍術第二十一世宗家一箭順三様とのご縁で、柳生家の遠祖と関係の深い春日大社とのご縁が復活しています。平成二十八年は春の奉納演武に続き、第六十次式年造替奉祝奉納演武を行い、おん祭へ参加しました。
・平成二十八年十二月十七日に行われたおん祭は、881回と回を重ね、ゆったりとした時の流れの中で祭礼が進み、試しの儀、そして影向の松前における演武を、宝蔵院流槍術の皆様とともに奉納いたしました。お旅所での拝礼のあと一の鳥居を経て大仏館に戻る道は、早くも冬の太陽が沈み始め、正面に生駒山を見ながら、柳生氏の遠祖が関わってきた土地の空気に感じ入るひと時でした。

■北畠神社(三重県津市)
・北畠神社は、北畠顕能公、北畠親房公、北畠顕家公を御祭神とします。境内の留魂社は北畠具教卿他を御祭神とします。流祖は上京の途上、伊勢国司北畠具教卿を訪ね、新当流の遣手でその腕前が近郷に知られていた柳生石舟斎を紹介されました。
・奈良の興福寺の子院である宝蔵院において宝蔵院胤栄立会いのもと石舟斎は流祖と立合いましたが、流祖の使う兵法の足下にも及ばす直ちに入門しました。胤栄もまた流祖に入門し、石舟斎と兄弟弟子となりました。その後、石舟斎は新陰流を継承し、宝蔵院胤栄は宝蔵院流槍術を創始しました。新陰流は尾張藩の御流儀となり、宝蔵院流槍術は広く各藩において学ばれました。
・今日も槍と剣のこの二流派は共に其道の発展に尽くしています。石舟斎が流祖から印可状を授けられて四百五十年を迎えた平成二十七年から御祭神である北畠具教卿に対して共に奉納演武を行っています。

■尾陽神社(愛知県名古屋市)
・尾陽神社は、尾張藩初代藩主徳川義直公と最後の藩主第十七代徳川慶勝公を御祭神として、明治四十三年に建立されました。
・江戸期には尾張柳生家の当主と共に7人の藩主(尾張藩主世子1人を含む)が当流の宗家を継承しました。義直公は新陰流第四世を慶勝公は第十八世宗家を務められました。
・第三世柳生利厳が元和元年に義直公の兵法師範となり尾張の地に居を定め、四百年目にあたる平成二十七年に奉納演武を行いました。

■足助神社(愛知県豊田市)
・元弘の戦い(1331年)で、後醍醐天皇が笠置山に身を移された時、柳生石舟斎宗厳(むねとし)より六代前の柳生播磨守永珍(ながよし)は一族郎党270名を引き連れて笠置山に馳せ参じ、足助次郎重範公を総大将として幕府方と戦いました。重範公が御祭神として足助神社に祭られています。
・重範公は笠置山陥落後斬首されましたが、重範公の娘が二条家に仕え生まれた子息が、犬山城の成瀬氏の祖と言われています。尾張柳生の開祖となる柳生利厳は、成瀬正成公による徳川家康公への推挙によって尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となったという繋がりがあります。
・足助神社例祭・重範祭では、足助神社宮司と笠置山の笠置寺住職により敵味方将兵を弔っています。当流は、ご縁により御祭神である重範公へ平成二十七年から奉納演武を行っています。