
<2-1 創始からの新陰流>
およそ五百年前の戦国時代、上州(群馬県)に生まれた上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)は、若くして刀、槍などの諸流の武術に通じていました。中でも愛洲移香斎から陰流を学び、その後新たに「転」(まろばし)という考え方に目覚め工夫を重ねて新陰流を拓きました。

石舟斎は五男・宗矩と共に徳川家康公に新陰流を上覧に供しました。その縁で、宗矩は家康公に仕えることになり二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の兵法師範となりました。このことによって新陰流の名は天下に知られることとなりました。宗矩は「江戸柳生」の開祖となりましたが、宗矩の曾孫・俊方以降は他家からの養子が家督を継ぎ、石舟斎以降の柳生家の血筋は惜しくも絶えてしまいました。
一方、利厳は石舟斎の長男である厳勝の次男として生まれました。利厳の兄久三郎は朝鮮で討死し、利厳は嫡孫となりました。彼は幼いころから、資質、兵法ともに祖父石舟斎に瓜二つと言われ、児孫の中で最も石舟斎に愛されたと伝えられています。祖父の膝下で兵法を修練し、正統第三世の相伝を授けられました。後に、利厳は尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となり、居を尾張に移し、「尾張柳生」の礎を築きました。元和偃武(げんなえんぶ)の時代に適応した「直立(つったつ)たる身の位」を考案した利厳は、その子連也厳包とともに新陰流の術理を発展させました。
<2-2 近代以降の柳生新陰流>
大正二年、厳周は師範補助厳長と共に宮内省済寧館へ出仕しました。これは明治天皇による新陰流の永遠保存の御旨によるものでした。残念ながら大正十年十二月に至り主管皇宮警察規綱の改革によって、御保存の道業は廃絶しました。

「碧榕館」は神奈川県鎌倉市の円覚寺に寄付され、現在「居士林」(こじりん)と呼称を改め在家信者のための坐禅道場となっています。
戦災によって兵庫助利厳以来の名古屋の屋敷と道場は焼失し、その活動すら危ぶまれた時期もありました。昭和三十年、最高裁長官石田和外氏はじめ諸氏の支援のもとに東京柳生会が発足し、厳長は活動を再開しました。さらに厳長は新陰流の歴史や理論を後世に残すべく『正傳・新陰流』(講談社・島津書房復刻)を著しました。

柳生家に伝わった新陰流という意味を明確にするため、昭和六十三年四月より「新陰流」ではなく「柳生新陰流」という呼称を使い始めました。
平成一九年五月に延春厳道が逝去し、第二十二世耕一厳信が尾張柳生家第十六代当主となりました。