5. 文献

『新陰流截相口伝書事』
 『新陰流截相口伝書事』は、流祖上泉伊勢守信綱の口伝を整理して体系化し、孫の柳生兵助長厳(後の兵庫助利厳)へ慶長八年(1603年)に伝授した目録であります。上泉流祖の兵法の考え方及び刀法を具体的に示したものです。
石舟斎宗厳は永禄八年(1565)四月に印可を許され、翌九年五月には
『影目録』
燕飛(一巻)
参学(一巻)
九箇(一巻)
七太刀(一巻)
の計四巻を相伝し、新陰流正統第二世を継承しました。

 『没滋味手段口伝書』
柳生宗厳 『没滋味手段口伝書』

 『没滋味手段口伝書』
 慶長九年(1604年)八月、宗厳は後継者を利厳と認め、自己一代の工夫公案である『没滋味手段口伝書』(没滋味とは何の味わいも無い、即ち争闘私意の無い心の意)を記しました。
 この後さらに一年間秘蔵の後、極意三箇条を追記した上、『新陰流兵法目録事』、『新陰流截合口伝書事』とともにこれらを兵庫助利厳へと相伝しました。
兵助長厳が正統第三世を継承したのは、宗厳七十七歳、兵助二十八歳を迎えた慶長十年(1605年)六月のことです。

柳生兵庫助利厳
尾張柳生開祖 柳生兵庫助利厳

『始終不捨書』
 元和六年(1620年)九月、尾張権大納言義利公(徳川義利、後の義直。尾張徳川家初代藩主)は新陰流正統第四世を継承しました。その際、第三世柳生兵庫助利厳は、他の目録、口伝書と共に自己一代の工夫公案の書として『始終不捨書』を進上しました。
 この書は、流祖上泉伊勢守信綱、第二世柳生石舟斎の時代の刀法である介者剣術(甲冑をつけての剣術)を明らかにしました。更に、甲冑をつけない素肌剣術が求められた「元和偃武(げんなえんぶ)」という新たな時代に即した新しい兵法術理の極意を確立した、一大改革の書です。
 「沈なる身の兵法」から平常服のままのより自由な剣法である「直立(つったつ)たる身の兵法」への移行は必然とも言えますが、日本の全剣術史における一大改革であったことに間違いはなく、第三世兵庫助利厳の偉業であります。

柳生連也斎厳包
第五世 第五代 柳生連也斎厳包

『新陰流兵法目録』(連也口伝書)
 新陰流正統第五世となった、柳生連也厳包が12、3歳の頃に書いたものとされる口伝書です。
流祖から石舟斎までの昔の教えを「本云」「本曰」とし、師父利厳が解説した新時代に即した今の教えを「厳曰」と記し、簡潔に伝述しています。新陰流兵法目録全四巻の各条目の全てに、初めて全口伝書を付記しました。不世出の天才兵法家と云われた連也は、こういった分野でも才能の一端をあらわしていました。
 連也はこの口伝書を作成しても生涯他人に開示することはなく、そのまま封印をして第八世を継ぐ甥の厳延に渡しました。「この厳封を開くものは、摩利支尊天の神罰を蒙りて、瞑目となる可し」と表書きされた密書は、厳延より三世後、正統第十一世柳生厳春までついにあかされることはありませんでした。
 厳春はそのとき非常な信念をもって厳封を解いたと伝えられています。しかし、その事により得た一大光明が今日まで活かされています。